情報源 > 書籍の翻訳[D]甲状腺の悩みに答える本
<第1部・第3章>
第1部<第3章>
甲状腺機能低下症:甲状腺が不活発な場合
歴史上もっとも偉大な軍事リーダーであるナポレオンは、結局のところ内部の敵によって滅ぼされたのかもしれません。歴史家はナポレオンがフランスの王位に就いた1804年と1814年の退位に至るまでの間に、精神的な減退が進み、鋭敏で決断の早い人間であったものが無気力で、優柔不断な男に変わっていったことを記しています。彼は自分の腹立ちを抑えることができなくなり、自制心や常識、そして長時間働き続けるというような彼の特性を失ってしまいました。海軍相のDenise Decresは「皇帝陛下は気が狂っておられ、我々を皆、破滅させてしまわれるであろう」とはっきり言っております。
このドラマチックな精神的荒廃の原因は甲状腺がひどく不活発になっていたためであると一部の歴史家が結論付けることに至ったのは、彼の性格の変化と同時に起きた様々な外見上の変化からでした(1)。ナポレオンは相当体重が増えて、顔が丸く、首も太くなっておりました。また、長いほつれた髪も細く、まばらになっておりました。彼の手は脂肪組織で被われており、“ぽっちゃり”した手と述べられておりました。ナポレオンはまた、便秘や皮膚のかゆみなどの甲状腺機能低下症の症状にも常に悩まされておりました。彼は恐ろしく元気で、活動的なリーダーから、46歳にしては老けており、疲れきった様子の男に変ってしまったのです。
明らかにナポレオンの時代の医師は、甲状腺機能低下症を医学的疾患であるとは認識しておりませんでした。かなり最近になるまで、彼と同じ筋書きをたどり、病気になるレベルまで徐々に機能が衰えていき、最終的にまったく機能できなくなるというようなことは重症の甲状腺機能低下症患者の間にごく普通に見られたことです。これは単に医師が甲状腺機能低下症を正確に診断する手段を持たなかったためです。事実、甲状腺ホルモンバランスの乱れを診断するために、精度の高い検査が利用できるようになる1970年代以前は、不活発な甲状腺はまれな病気だと考えられていました。医師はその人の外観や精神的行動に現れた変化が明らかになってやっと気付くことが多かったのです。患者が、昏睡や錯乱を含む重症の甲状腺機能低下症の影響のため、入院が必要になるまで診断されずに見逃されることもよくありました(2)。一部のケースでは、甲状腺機能低下症患者の精神状態は精神病になるところまで悪化しておりました(3)。1949年に、R. Asher博士が 彼の患者のことを“粘液水腫狂気”があると記載しております(4)。しかし、不活発な甲状腺は人間が罹るいちばん多い病気の一つであることがわかったのです。
<第2章>では甲状腺ホルモンバランスの乱れを起こす最大の原因である2つの病気、慢性甲状腺炎とバセドウ病という免疫性疾患について述べました。慢性甲状腺炎はバセドウ病よりはるかに多く、人口の10%がこの病気に罹っており、甲状腺機能低下症の原因としていちばん多いものです。他にも甲状腺の機能低下を起こす病気が数多くあります。
  • 放射性ヨードや薬で活発すぎる甲状腺の治療を行った場合。
  • 結節や甲状腺腫、バセドウ病あるいは癌の治療のため、甲状腺の一部または全部を取った場合。
  • 一次的に甲状腺の部分的損傷を起こすウィルス性疾患である亜急性甲状腺炎(<第4章>参照)のために起こる一過性の甲状腺機能低下症。
  • これも甲状腺の一過性損傷を起こしますが、免疫性攻撃である無痛性甲状腺炎(<第4章>参照)のために起こる一過性の甲状腺機能低下症。
  • 以前頭頚部への放射線照射を受けた場合。
  • 甲状腺とは無関係の疾患で頚部の手術を受けた後、甲状腺への血液供給が障害された場合。
  • 食餌中のヨード欠乏によるもの(世界のいくつかの地域では普通に見られる問題ですが、アメリカでは希です)。
  • 薬物の相互作用によるもの(アミオダロンやリチウム、インターフェロン、およびインターロイキン-2で起こるような作用)。
  • 甲状腺がないか、発育不良の場合(先天性甲状腺機能低下症、小児甲状腺機能低下症)。
  • 甲状腺ホルモンを作るために欠かせない酵素の遺伝的欠損。
  • 視床下部または脳下垂体の障害。
甲状腺機能低下症の徴候  
甲状腺ホルモンレベルが下がってくるにつれ、ほとんどの臓器の機能に影響が出てきます。そしてさまざまな身体的症状を経験するようになると思われますが、それには次のようなものがあります。
  • 全身の疲労
  • 体重増加
  • 関節や筋肉の痛み
  • 筋肉がつる。
  • 便秘
  • 皮膚の肥厚
  • 皮膚が乾燥し、青白くなる。
  • 髪がもろくなる。
  • 眉毛を含む脱毛
  • 暖かい時でも寒く感じる。
  • 乳房から母乳様の分泌物が出る(乳漏症)。
甲状腺ホルモンの欠乏がひどくなればなるほど、症状も悪化してきます。そして他の症状も出始めることがあります。声がしゃがれてきて、低くハスキーになり、話し方が緩慢になってくることがあります。発音がはっきりしなくなる場合があります。顔がむくんでくることもあります。聴力も落ちてくることがあります。皮膚、特に手のひらの皮膚が血液中にカロチンが蓄積するため黄色味を帯びてくることがあります(正常な場合、体内でカロチンがビタミンAに変換されるのですが、その過程が甲状腺機能低下症のために遅くなるのです。事実、ベータカロチンを含むビタミン剤を飲んでいる場合、手のひらが黄色くなることが甲状腺機能低下症の早期発見の手かがりとなることもあります)。また、足がむくんだり、ちょっとした運動でも息が切れるようになる場合もあります。心拍数は減少し、血圧が上がったり、あるいは下がったりすることがあります。甲状腺機能低下症の人の21%に高血圧が起こると見積もられています(5)
不活発な甲状腺が健康に及ぼすその他の重要な影響としては、高コレステロール血症により引き起こされるものがあります。甲状腺が不活発になると高コレステロール血症が起きたり、悪化したりしますが、そのため冠動脈疾患(心臓の動脈が硬くて内腔が狭くなること)になる可能性があります。研究ではコレステロールレベルの高い40歳以上の女性の20%に不活発な甲状腺があることがわかっています(6)。甲状腺が不活発になると感染に対する防御力が低下します。甲状腺機能低下症になると、真菌やウィルスに感染しやすくなり、生殖機能が悪影響を受けることが多くなります。重症の甲状腺機能低下症の女性では、月経時の出血がひどくなったり、あるいは月経が止まってしまうこともまれではありません。 重症の甲状腺機能低下症の人の多くは、手足のしびれやぴりぴりした感覚を訴えます。これらの症状は甲状腺機能低下症により誘発された神経障害、すなわち退行性の神経疾患があることを示唆する場合があります。一部の研究では、重症の甲状腺機能低下症患者の50%以上に末梢神経の損傷があり、その中でぴりぴりした感覚に悩まされている患者がいることが示されています(7)。重症の甲状腺機能低下症で起こることのあるもう一つの神経に関連した病気は、手根管症候群です。これは手首の正中神経が圧迫されるために起こるものです。これにより、指がきりきり痛むのですが、甲状腺ホルモン治療により治ることが多いのです(8)。それ以外に、重症の甲状腺機能低下症により引き起こされる可能性のある神経や筋肉の問題には次のようなものがあります。
  • 筋障害、筋力低下を起こしその結果、クレアチンーりん酸酵素(CPK)のレベルが高くなる筋組織の障害。CPKは筋肉の病気を示す血液中のマーカーです。
  • 筋肉収縮後、なかなか弛緩しない。
  • 筋肉量が過度に増加する(子供で見られる)。
  • 痙攣発作
重篤な甲状腺機能低下症であれば、筋肉の動きの調和に問題が生じることもあります。このため、日常生活に支障を来たすことがあります。随意筋の動きを調和させることができない(運動失調)ため、平衡性が失われたり、足元が不安定になったり、調和した手足の動きができなかったり、震えが起こる場合があります。
その他に重症の甲状腺機能低下症を示す身体症状で、誤診されやすいものには消化器系と呼吸器系の症状があります。
  • 消化管の運動が減り、ひどい便秘が起こる。
  • 腸閉塞および、希に腸管穿孔(特に重篤な甲状腺機能低下症の場合のみ)。
  • 睡眠時無呼吸:睡眠中に一時的に呼吸が止まる。
  • 脳内の呼吸調節機能の障害。
  • 胸水:肺と胸腔を被う膜の間に液体が溜まること。
甲状腺機能低下症の身体への影響は人によって様々に異なります。事実、ある一つの臓器にのみ関連した症状が出る場合もあります。ある患者は心臓病が出るかもしれませんし、別の患者には関節や筋肉の痛みが出るかもしれません。患者と医師は主に身体的症状に注意を向けて、精神的影響を見逃したり、あるいはその症状が身体的な病気のせいだと思ってしまう可能性があります。重症の甲状腺機能低下症に罹っており、薬を飲んでいない人は粘液水腫昏睡の状態に一挙に進んでしまうことがあります。これは寒さに曝されたり、脳を鎮静させる薬剤、あるいは重篤な感染や脳梗塞などの病気が引き金となって起こることが多いのです。粘液水腫昏睡に陥った人は非常に体温が低く(低体温症)、血糖値が下がる(低血糖症)ことがあり、人工呼吸器を必要とする場合が多いのです。この状態は危険なものであり、死に至ることもあります。
不活発な甲状腺が精神に及ぼす影響  
同様に、甲状腺機能低下症の精神的影響は、例え同じ程度の甲状腺機能低下症の人の間であっても、一人一人様々に異なります。アレックスは甲状腺機能低下症のためにひどいうつ病になり、一方ジュリアはごく軽い、やっとわかる程度のうつ病になり、ビルは多種多様な不安症状を呈するというような場合があります。このような違いが出る理由は、性格や以前気付かれることのなかった境界型、あるいは隠れた精神症状の有無にもよりますが、 人それぞれ異なったタイプの反応をする性質があるという事実から来るものと思われます。また、環境や社会経済的ファクターのために甲状腺機能障害の影響が人それぞれに異なるのかもしれません。甲状腺が不活発になると以下に挙げた精神症状のいずれかが起こることがあります。
  • うつ病
  • 精神の働きが鈍くなる。
  • 眠気がひどくなる。
  • 忘れっぽくなる。
  • 感情的に不安定になる。
  • 意欲がなくなる。
  • 注意力や集中力が減退する。
  • 物事への興味がわかなくなる。
  • 思考や話の速度が遅くなる。
  • 怒りっぽくなる。
  • 開けた場所や人が集まる場所を恐れる(広場恐怖症)。
  • 視聴覚的幻覚およびパラノイア妄想(希で、非常に重篤な甲状腺機能低下症にのみ見られます)
  • 痴呆(一般に、長期間にわたって重篤な甲状腺機能低下症が続いた場合に見られます)
  • 躁的行動
一般に信じられていることとは違い、甲状腺機能低下症は甲状腺がまったく機能しなくなったということではありません。甲状腺の損傷の程度にもよりますが、ホルモンの欠乏の程度は、ほんのちょっとのものから相当の量までかなりの幅があるものです。身体症状はひどい甲状腺機能低下症ではよりはっきり現れますが、ほんのわずかな甲状腺ホルモンの不足であると考えられる場合であっても気分や感情の乱れが起こる可能性があります。
今日では、もっとも軽い甲状腺機能低下症のケースさえも見付けて治療する手段があります。技術の進歩により、甲状腺機能低下症がありふれた病気であることがわかりました。病像の最極端にある重症の甲状腺機能低下症には、一般集団の1.5%から2%が罹患していますが、その一方で軽度の甲状腺機能低下症に罹っている人は5%から7%です(9)。また、血液検査では正常であると思われるのに、実際は甲状腺ホルモンが足りない人もおります。(<第14章>参照)血液検査が正常な患者を含めれば、ごく軽度の甲状腺機能低下症の発生率は人口の10%に達するものと思われます。
多くの人に生涯安定したままの軽度の甲状腺機能低下症があると思われますが、一部の患者では時間の経過とともに甲状腺ホルモン欠乏が悪化して行く可能性があります。軽度の甲状腺機能低下症に罹っている人のほぼ2から3%が、毎年もっとひどい甲状腺機能低下症に進んでいます(10)
一般集団内でどれほど甲状腺機能低下症が多いものかについて医師の意識が高まり、甲状腺ホルモンレベルの精密な検査法があるにもかかわらず、いまだ多くの人が甲状腺機能低下症の暗い穴に落ち込んでおります。この章で述べたような身体的あるいは精神的症状のどれかがある人は、医師にTSH(甲状腺刺激ホルモン)検査をしてもらってください。この検査は甲状腺の機能障害による甲状腺ホルモンバランスの乱れを見付けるにはもっとも感度の高い検査です。
不活発な甲状腺の主な精神的、または感情的症状が実生活ではどのように現れるのか詳しく見てみることにしましょう。
“疲れきって、まいってしまった”
その人の甲状腺機能低下症が軽いものか、中程度のものか、あるいはひどいものかということに関係なく、いちばん多い−そしていちばん目立つ−不活発な甲状腺の症状は疲労です。この疲労には身体的要素(代謝速度が遅くなるため)と精神的要素(うつ病と関連したもの)があります。うつ病と知能の喪失がいちばん多い不活発な甲状腺の影響です。<第5章>で、甲状腺機能低下症が軽いうつ病や軽度の慢性的うつ病、あるいは典型的うつ病のような極端なケースまで含め、どのようにうつ病を起こしたり、あるいは主な誘因ファクターとなり得るかということを詳しく述べることにします。疑いなく、疲労はタイプに関わりなくうつ病に共通して見られる症状です。甲状腺機能低下症では以前よりたくさん眠るようにもなります。
実際、睡眠の増加は不活発な甲状腺の主な症状とみなされております。以前よりたくさん眠るようになった甲状腺機能低下症の人は疲れているので眠気が強くなったのだと思うことが多いのですが、実際にはうつ病と関係していることがあります。いつになく疲れがひどく、たくさん眠るようになった甲状腺機能低下症患者の多くが、意欲がなくなり、たとえいつも楽しんでやっているようなことであっても何かしようという気になれないと訴えるのです。甲状腺ホルモンの欠乏がひどくなると、精神の活動の低下とうつ病が体の代謝速度の低下により複雑に入れ混じってきます。そして、このためにあたかも穴の中でもがいているように感じることがあります。不活発な甲状腺のある患者には、著明な不安症状や多岐にわたる認知障害が出ることもあります。
身体障害不安
私の臨床経験から、不安は医師が一般的に考えているよりもずっとありふれた甲状腺機能低下症の症状です。不安や不安パニック発作は普通、甲状腺機能亢進症の症状であるため、甲状腺が不活発な患者の中にはそのような症状を経験した際に、甲状腺機能低下症であると言われてまごつく人がいるかもしれません。不安は疲労やうつ病を伴う不活発な甲状腺のある人を身障者にしてしまうような影響を及ぼすことがあります。
多くの人では、不安はうつ病そのものに関係したものですが、それ以外の人ではうつ病をほとんど、あるいはまったく伴わずに不安症状だけが目立ちます。しかし、そうであっても甲状腺ホルモンの欠乏とそれが脳の化学伝達物質に及ぼす影響が不安を生じる結果となるのです。不活発な甲状腺がその人のストレスに対処するメカニズムを変えてしまい、自尊心が低下するという事実が症状としての不安が目立つ理由と思われます。また、恐怖や自己不信も記憶や集中力の欠如を認識することによって混じってくることがよくあります。
甲状腺機能低下症の人、特に女性は、自分に“魅力がない”と思い始めることがよくあり、人前に出るのを嫌がるようになることがあります。このような不安は、頭痛、筋肉のつりや痛み、そして脱毛などの他の身体症状が現れるようになると、それにつれて悪化していく可能性があります。
マリーは29歳の看護婦ですが、未診断の甲状腺機能低下症の様々な影響を受けつつも何とか大学を卒業しました。彼女にはあまりにもたくさんの不安症状があったため、精神科医はおそらく不安症候群という診断をつけるだろうと思います。彼女は甲状腺の病気の診断を受けるまでほぼ2年間にわたって、極度の疲労と抑うつ状態にありました。彼女は競走の激しい学校の中で成績が下がる原因となる自分の記憶力や集中力の減退だけでなく、身体症状も克服しようとして、そこから来る不安に悩まされていました。
彼女はこう述べています。
私は大学1年の時に本当に疲れるようになりました。他の人には普通と思われる1日を過ごした後の疲労がひどいのと睡眠を長くとる必要があったため、それが私の生活に本当に悪影響を及ぼすようになってきました。あまりにも疲れていたため、あちらこちらのパーティーに出かける気にもなれませんでした。臨床実習のため、数時間車を運転して病院まで行かなければなりませんでした。それで、私は自分の疲労を何時間もかかる通勤や仕事と勉強のストレスのせいだと思ったのです。私の髪は抜け落ちていき、皮膚と目がいつも乾燥していました。体のあちこちが痛み、ただ疲れているとしか説明しようがなかったのです。
私は試験に通らないのではないか、落第するのではないかとひどく恐れていました。私があまりにもぴりぴりして、不安そうだったので、担当教授の一人が私を呼んでこう言ったのです。「どうしたの?別人みたいよ」私は教授に大丈夫だと言ったのですが、本当は気が狂わんばかりだったのです。教授はこう言いました。「いいえ、いつものあなたではありませんよ。いつもは穏やかな人なのに、今ではアドレナリンが出っ放しみたいよ(緊張してぴりぴりしていること)」私は教授に試験を受けなくてはならないからそのために不安になっているだけだと言いました。
記憶障害と集中力の低下により、マリーの苦しみはさらにひどくなりました。ちゃんと課題ができないのではないかと気にして、それがさらに不安や非現実的な恐怖をを生み出し、最後には身体障害パニック発作を起こすまでになったのです。私共がマリーの甲状腺機能低下症に対し、甲状腺ホルモン療法を始めてから4〜6週間後に、彼女はずいぶん気分がよくなりました。4ヶ月後、甲状腺ホルモンの検査結果が正常になり、安定した時に彼女のうつ病と不安症状は大幅に改善されました。記憶力と集中力も正常に戻りました。脱毛を除き、身体的症状もすべてよくなりました。脱毛は不活発な甲状腺が治った後も6ヶ月以上残りました。
頭の霧が晴れる  
関節の痛みや筋肉がつるというような身体的症状は比較的率直に言い表すことができるかもしれませんが、ごくわずかな認知能力の低下を詳しく説明しようとすると、すぐにそれが如何に難しいかということがわかるでしょう。数年前、ある患者が甲状腺機能低下症の精神的影響を私に“頭の霧”と述べました。甲状腺が不活発になると細かいことや名前、あるいは何かあったということも覚えられなくなる場合があります。甲状腺ホルモンレベルが低くなったことで、正常な場合脳が持っている思考を把握したり、処理したりする力の一部が失われるのです。本を読んだり、誰かが話しているのを聞きながらその概念をすぐ理解できるかもしれません。でも、そのすぐ後にそれを完全に言い表せなくなるかもしれません。その概念が頭の中でぼやけてきます。考えを言い表そうとすると、以前は素早くいくつかの言葉を思い浮かべ、苦もなくいちばん適当なものを選び出していたのに、ちょうどよい言葉を思いつくことができないということがよく起こります。
リサは法律大学院に進むことを考えていた学部学生でしたが、抑うつ状態になり、甲状腺機能低下症の症状の多くを経験しました。「赤ん坊が生まれてから、意気消沈した状態になりました。ひどく疲れて憂うつでした。時々、理由もなく上の2人の息子に腹を立てるようなことがありました。今までそんなことはなかったのに」と彼女は言いました。
リサが私のもとに来た時、彼女の精神機能障害はさらに悪化していました。そして、彼女が経験していた認知障害のため、もう法律大学院進学のことなど考えられなくなっておりました。
彼女が言うには
私は物事に集中できなくなりました。質問をして、その答えをすぐに忘れてしまい、また聞き直さなければなりません。これはとても恥ずかしいことです。何か一つのことを考えると、すぐに別のことを考えます。何であれ最後まできちんと物事を考えていられないんです。私は記憶喪失を隠そうと努めてきました。だから誰も私がそんなに悪いなんて思わなかったのです。でも、もう隠し通せなくなるところまできてしまったんです。すぐに取り違えてわからなくなるんです。今では車の運転も恐ろしくなりました。突然どこにいるのかわからなくなるからです。
記憶や集中力の維持が困難になるのは、うつ病や不安の症状でもあることが多いのです。しかし、患者に不活発な甲状腺があれば、認知障害の程度がひどく、不安を悪化させます。
アンは24歳の秘書で、中程度の甲状腺機能低下症に罹っていましたが、うつ病と不安症状に3年間も悩まされていました。しかし、彼女が医療の助けを求めたのは、記憶喪失が悪化してきたためです。彼女の夫は交通事故で4年前から身障者になっていました。これが彼女のうつ病の一因となっていたのです。
彼女の言葉によれば
診断を受ける前、確かに今までにない高いレベルの不安を感じていました。物事を何度も繰り返して考えるようになり、何日もそのままにしておくことができませんでした。ほんの些細な事も心配するようになりました。不安に感じている時は自分でわかりました。心臓が速く打ち、筋肉が堅くなって、気持ちが張り詰め、他の人に噛みつくんです。私はこのことが主に主人の健康のせいで起こったのだと思っていました。
私が何も覚えていないことに気付き始めた時、私の不安症状はさらに悪化しました。それは仕事にひどく差し支えるものでした。また、自分のしていることにまったく集中できませんでした。物事になかなか集中できず、自分の気持ちをうまく言葉で言い表すことができませんでした。社長からは解雇されそうになりましたが、私が家族を養っていたんです。それからしばらくして、本当に恐ろしいことになってきました。ある日、私のドライヤーの上に新しいトースターが置いてありました。私は妹を呼んで、トースターを買ってくれた礼を言いました。そして彼女はこう言ったのです。「わたし、トースターなんか買ってないわよ」そのトースターは私が買ったものだったのです。でも買った記憶がなかったんです。全然何も覚えていませんでした。娘が私に何か話したと言っても、何も思い出せません。まるで笑い話のようです。私達はそのことを大した事ではないと考えるようにしていましたが、私の記憶は失われつつありました。それはストレスのせいだと思っていました。
アンのケースは記憶やその他の認知機能が損なわれることで、甲状腺機能低下症患者がさらに不安を覚えるようになるということをはっきり示しています。記憶障害や仕事がうまくできないということに彼女が自分で気付いていたために、新たな心配が生じ、不安症状が悪化したのです。
ボリス・エリツィンの不活発な甲状腺  
1991年6月、ソ連の共産主義崩壊後、ボリス・エリツィンが新生ロシアの初代大統領に選ばれました。それから5年の間に、スマートで頭の回転の速い政治リーダーから、明らかに深刻な健康上の問題で政治家としてのキャリアが損なわれた、歩き方も話し方ものろのろした大統領にエリツィンが変わっていったのを世界中が目にすることになりました(11)
1996年の終わりにかけて、エリツィンの健康状態は公の場所に出ることもままならなくなるところまで悪化しました。評論家やマスコミはエリツィンが、もはや政府を完全に支配できない状態であると公然と非難しました。1996年の9月に、私の所属する施設から心臓血管外科のMichael DeBakeyとGeorge Noonの両医師がエリツィンの元に行き、複数箇所の心臓バイパス手術を勧めました。しかし、消化管出血や6月の終わりか7月の始めの心筋梗塞による心機能の不良、そして新しく甲状腺機能低下症であると診断されたことなどいくつかの理由があって手術は数週間延期されることになりました。手術の前にこれらの問題を治しておく必要があったからです(12)
1996年の9月になるまで、かなり長いことエリツィンの健康に悪影響を及ぼしていたと思われる甲状腺機能低下症の診断がなされておりませんでした。長いこと甲状腺機能低下症が治療されないままであると、そのためコレステロールレベルが上がりその結果、冠動脈疾患(心臓を養っている血管の血流が減る)になることがあるので、心筋梗塞を起こすリスクが高くなります。
診断がつく前、エリツィンは“動作がのろく、ぎこちない”とも言われていました。彼の話方はろれつが回らず、“おかしな”振る舞いをすると言われておりました。そして、時々何の説明もなく公の場に姿を見せなくなるということがありました。ひどい飲酒僻があるといううわさが広まりました。
エリツィンは徐々に太り、むくんできました。心臓手術の前に撮った写真で、彼の顔のむくみが少しずつ悪化しているのがはっきりわかります。これは彼の甲状腺機能低下症が長いこと続いており、相当長い間診断されないままでいたということをうかがわせるものです。
明らかにエリツィンの甲状腺機能低下症が、なかなかよくならないうつ病の原因となっていました。このことは評論家やマスコミの知るところとなりました。エリツィンは疲労のため会議をいくつかキャンセルせねばならず、“突然不可解な欠席をしたり、異常な行動に駆られたりすることが多く”なりました(13)。エリツィンの診断がつく前、何ヶ月もの間、彼は人目に触れないよう引きこもっておりました。それだけでなく、アルコールの消費量も増えていたのです。
私共はエリツィンの甲状腺機能低下症(およびそれが原因で起きたうつ状態も影響した可能性が極めて高い)が過去数年間にどの程度ロシアに悪影響を及ぼしたか推測することだけしかできません。また、私共は1996年夏、エリツィンが政府の支配力を失ったことにこれらのファクターが寄与しているのかどうかについても、そうではなかろうかと思うことしかできません。ただ、バイパス手術を受けた後のエリツィンの変わり様は、心臓病を手術で治したためだけではない可能性がきわめて高いのです。甲状腺の病気を治療した後の彼の変化は目覚しいもので、甲状腺ホルモンバランスの乱れが如何に歴史の流れに悪影響を及ぼし得るかということをはっきり示すものでもあります。
政治リーダー、特に政府内の高い地位にある人を診る医師は、人格や感情、あるいは判断力に変化が見られ、またそのリーダーが説明のつかないような症状を呈する時には、常に甲状腺ホルモンバランスの乱れの可能性に注意を払うようにしなければなりません。
軽度の甲状腺機能低下症への挑戦  
かつては論じられることもなく、あるいは疑われることさえもなかったのですが、軽度の甲状腺機能低下症とその身体や精神の健康への影響はますます広がりつつあります。今では、夥しい数の研究で、軽度の甲状腺機能低下症がコレステロールレベルの上昇や不妊、流産、疲労、そしてうつ病の一因となっている可能性があるという結論が出されています。研究では、軽度の甲状腺機能低下症を治すことで、総コレステロールと“悪玉”コレステロール(LDL)のどちらも下がることが示されております(14)。我々が更年期の女性で行った研究では、冠動脈硬化がある女性は心疾患のない女性より軽度の甲状腺機能低下症に罹っている可能性が高いという結果が出ております。これはおそらくこの“ちょっとした病気”がコレステロールレベルに及ぼす影響によるものと思われます。しかし、今日に至っても、多くの医師が軽度の甲状腺機能低下症は大したものではないとまだ信じているのです。一部の医師は患者に「この病気は治療するほどのことはありませんよ」と言うでしょう。軽度の甲状腺機能低下症に罹った患者が経験するいちばん多い身体症状は、疲労と皮膚の乾燥、そして寒さに耐えられなくなることです。女性の中には軽度の甲状腺機能低下症のために月経がひどく、期間も長くなる人がおります(過多月経)。
うつ病の症状が出たり、あるいはうつ病に罹りやすくなることに加え(<第5章>参照)、軽度の甲状腺機能低下症患者はヒステリーや不安、身体的愁訴を度々訴えるようになることがあります。また、記憶に関連した能力に一部障害が出ることもあります。記憶力減退や集中力の問題は甲状腺ホルモン療法で改善されます。ラテンアメリカでは、食餌中のヨードが欠乏している人は認知能力に障害を来たす可能性が高いこということが見出されました(15)。食餌中のヨードが少なすぎると、正常な量の甲状腺ホルモンが作れなくなることが多いのです。これらの人の認知能力障害は、食餌中にヨードを添加したところ改善されました。スウェーデンで軽度の甲状腺機能低下症のある高齢女性に関して行われた別の研究では、6ヶ月間甲状腺ホルモンで治療した後、これらの女性の記憶スコアに20%の改善が見られました(16)。ウェクスラーの記憶検査のようなもっと感度の高い記憶テストを使ったところ、軽度の甲状腺機能低下症のある人の80%以上に記憶機能障害があることがわかりました(17)。軽度の甲状腺機能低下症は、最近の記憶と視覚的記憶のどちらも損なうのです。
軽度の甲状腺機能低下症のため、たった今読んだばかりのことがなかなか思い出せないかもしれません。軽度の甲状腺機能低下症のある人の多くは、実際のところ最新の神経心理学的検査(18)でのみはっきりするようなわずかな欠陥しかなければ、どこも悪いところはないと思うでしょう。軽度の甲状腺機能低下症患者はパニック発作を起こしやすい傾向もあります。私が今までに述べたような不活発な甲状腺の症状のどれかがあるか、コレステロール値の高い人は、医師にTSHの検査をしてもらうようにしてください。35歳以上の女性であれば、医師に5年毎に甲状腺の検査をしてもらうようにしてください。すでに軽度の甲状腺機能低下症であると診断された人は、おそらく生涯にわたって治療が必要になると思われます。事実、バランスの乱れを治すに必要な甲状腺ホルモン剤の量は時間の経過と共に増えていく可能性があります。
軽度の甲状腺機能低下症が苦痛や障害を生じる可能性があるという認識が欠けているために、この病気につきもののごくわずかな甲状腺ホルモン検査の異常を医師が無視してしまう恐れがあります。もし、かかっている医師が甲状腺ホルモンの欠乏が治療が必要なほどのものではないと言った場合、このことを聞き入れてはなりません。反対に、甲状腺の病気に詳しい専門家の意見を求めるよう強く要求してください。多くの人が検査を受けていますが、症状を起こしている軽度の甲状腺機能低下症が明らかにある場合でも、治療を受けていないということを憂慮しております。
アンケート:甲状腺機能低下症の身体症状  
もうおわかりと思いますが、甲状腺機能低下症による精神的苦痛はうつ病だけに限られたものではありません。甲状腺ホルモンの欠乏が不安のレベルや思考パターンに影響を及ぼすため、複雑な神経行動学的変化を生じます。精神へ及ぼす身体の影響もうつ病や不安、無力感を悪化させることがあります。甲状腺機能低下症の進行につれて、精神的影響も大きくなり、仕事や人間関係にも悪影響が出てきます。そして、その人はまるで溺れているような気持ちになるのです。
甲状腺機能低下症に罹っている可能性があるかどうかを簡単に確かめる方法は、次に挙げた身体症状のアンケートにすべて答えることです。
髪が乾燥してきたり、脱毛がありますか? はい・いいえ
最近月経がひどくなりましたか? はい・いいえ
関節の痛みにずっと悩んでいますか? はい・いいえ
爪がもろくなっていますか? はい・いいえ
筋肉がつるようなことがありましたか? はい・いいえ
筋肉がだんだん弱くなっていると思ったことがありますか? はい・いいえ
皮膚が乾燥していますか? はい・いいえ
顔や目が腫れぼったいことがありますか? はい・いいえ
寒さに耐えられないようなことがありますか? はい・いいえ
5ポンド(約2キロ)以上太りましたか? はい・いいえ
皮膚がざらざらしていますか? はい・いいえ
便秘するようになりましたか? はい・いいえ
最近、乳房から乳汁のようなものが出るのに気付いたことがありますか? はい・いいえ
汗があまり出なくなりましたか? はい・いいえ
声が嗄れてきましたか? はい・いいえ
指がぴりぴりして痛みますか? はい・いいえ
耳が聞こえにくくなってきましたか? はい・いいえ
心臓がゆっくり打つようになりましたか? はい・いいえ
硬直が起こったことがありますか? はい・いいえ
疲労が続いていますか? はい・いいえ
目が乾燥していますか? はい・いいえ
運動中に息切れしたり、以前ほど運動ができなくなったようなことがありますか? はい・いいえ
  「はい」と「いいえ」の数   ・   
上記の質問に4つ以上「はい」という答えがあれば、甲状腺機能低下症の可能性があります。また、「はい」が6つ以上あればおそらく甲状腺機能低下症であると思われます。
<第5章>にはうつ病と不安のアンケートを載せております。ただし、先の身体症状に関するアンケートの答えから軽度の甲状腺機能低下症である可能性が示唆され、また<第5章>のアンケートの答えからうつ病あるいは不安障害があることが示唆されたとしても、甲状腺の検査が必要であるということを覚えておいてください。
甲状腺機能低下症と加齢  
私の甲状腺機能低下症患者の一人で、20代前半の人が、甲状腺が不活発になった時、急にどんどん年を取っていくような感じがしたと言いました。これは、甲状腺ホルモン欠乏の影響が加齢にそっくりなことから、まことに洞察力に富む言い方です。年を取るにつれ、記憶力や集中力、そして新しい情報を処理する能力が徐々に損なわれていきます。甲状腺機能低下症でもあまり体を動かさなくなってきます。これは筋機能への直接の影響と気分や感情の障害が起こるためで、ちょうど人が年を取るにつれてあまり動かなくなるのを鏡で見ているようなものです。
事実、正常な加齢プロセスは、自然に起こる体内での甲状腺ホルモンの活性の減少にある程度関係しているものと思われます。例えば、甲状腺は年を取るにつれて小さくなります。そしてその構造と機能も徐々に衰えてきます。体内でのT4からT3への変換が損なわれるため、もっとも活性の高い形の甲状腺ホルモン(T3)の組織内での量が減ってきます。これが甲状腺ホルモンによって高度に制御されている基礎代謝率も、年を取るにつれ減少していく理由です。85歳までに、基礎代謝率は3歳時のレベルより52%下がります。その結果、甲状腺ホルモンを必要とする正常な生理学的反応の効率が悪くなってきます。年を取るにつれて、非常な暑さ、寒さに曝された際に、体温を調節するのが難しくなってきます。年を取ると、臓器内の甲状腺ホルモンが不足するので、体内での必須蛋白質の合成速度も遅くなってきます。これが加齢プロセスの特徴です。年齢とともに甲状腺ホルモンの活性が自然に下がってくることが正常な加齢プロセスに寄与しているのではないかと考えられています(19)
甲状腺ホルモン欠乏の影響が加齢の影響と同じであることから、若い人では身体症状によって甲状腺機能低下症を疑うことができても、高齢者ではあまりあてにできないということになります。加齢と甲状腺機能低下症のどちらにも、精神活動の低下や皮膚の乾燥、便秘、うつ病、そして動脈硬化や高コレステロールの発生率増加を伴います。したがって、ルーチンに甲状腺ホルモンの検査を行わない限り、甲状腺機能低下症を発見することができない恐れがあります。甲状腺機能低下症の症状が加齢プロセスそのもの、あるいは他の病気のせいだと思われることが非常に多いのです。
ある研究で、不活発な甲状腺のある高齢者の27%にしか甲状腺機能低下症の症状が出ていないことが示されています(20)。これは不活発な甲状腺のある高齢者では、限られた数のはっきりしない症状しか出ないことが多いということを意味しています。これらの症状は精神錯乱や体重減少、食思不振、繰り返し転倒する、痛みや疼痛、衰弱、筋肉の硬直(これはパーキンソン病と間違われる可能性があります)、失禁、およびうつ病であると思われます。その結果、表面上は加齢そのものとそっくりなため、甲状腺機能低下症が気付かれないままに過ぎ、時間が経つうちにひどくなってしまうことがあります。高齢者の間ではほんのちょっと甲状腺ホルモンが足りないだけの人にも非常に多く見られるうつ病や認知能力の障害に加え、甲状腺機能低下症が相当ひどく、すぐに治療されない場合は深刻かつ重篤な精神活動遅滞が起こることがあります。このような精神活動の遅滞がひどくなり、最終的に痴呆につながる恐れもあります。甲状腺機能低下症による痴呆は、新しい記憶や集中力、および問題解決能力を支えている脳内の構造が崩壊することによって引き起こされるものです。
時に、その人が引きこもりがちになり、精神活動の極端な遅滞を示すため、家族が患者を病院や医院に連れてくることがあります。甲状腺の病気の発生率や影響についての知識が普及しつつある今日でも、私共は重症の甲状腺機能低下症のために痴呆状態にまで進んだ高齢の患者をまだ見続けているのです。痴呆患者のほとんどは自分に何が起こっているのか気付いておりません。アルツハイマー病が高齢者の痴呆の最大の原因の一つであることから、痴呆と診断された患者の中には、本当のところ長く続いた甲状腺機能低下症が主な原因であると思われる場合であっても、アルツハイマー病に罹っていると思われている人がおります。
アルツハイマー病による痴呆と甲状腺機能低下症により起こる痴呆がよく似ているため、アルツハイマー病と甲状腺ホルモンバランスの乱れとの間の関係について研究が行われることになりました。研究では慢性甲状腺炎、または甲状腺ホルモンバランスの乱れが散発性アルツハイマー病の重要なリスクファクターであるという証拠を得ることはできませんでした。しかし、最近行われたある研究で、家族性アルツハイマー病のある患者と罹患していない親族のどちらにも、慢性甲状腺炎と甲状腺機能低下症の罹患率が高いことが示されました(21)。慢性甲状腺炎と家族性アルツハイマー病との間の関連性は、遺伝子により伝えられるようです(ダウン症候群の遺伝子と同じ第21染色体上にあります)。甲状腺機能低下症はアルツハイマー病のある人に精神的、認知能力の欠陥が起きるリスクを高める可能性があります。そのためアルツハイマー病と診断された場合、医師は通常、甲状腺機能低下症の検査も行うようにしますが、そうすることで甲状腺機能低下症であることが判明した場合に認知能力の衰えを甲状腺ホルモン療法で鈍らせることができます。未診断あるいは未治療の甲状腺機能低下症の影響は高齢者では非常に深刻なことがあるため、高齢者はもっと頻繁に甲状腺機能低下症のスクリーニングを受けるべきです。
イギリスとアメリカでは、更年期以降の女性と60歳以上の男性で甲状腺機能低下症の発病率が急激に上昇します。更年期以降の女性のおよそ10から15%が軽度の甲状腺機能低下症に罹っており、一方男性の罹病率は6%です(22)。高齢者のほぼ45%にある程度、慢性甲状腺炎の特徴を示す甲状腺の炎症が見られます。先に記したように、ごく些細な甲状腺ホルモンバランスの乱れが高齢者では若い人に比べ、より重大な影響を及ぼすことが多く、医師が適切な治療を行えば、当人や家族に余計な苦しみを味わわせることなく、目を見張るような結果が出ることが多いのです。高齢者の中に甲状腺機能低下症の罹患率が高いことと、甲状腺機能低下症の症状と正常な加齢プロセスの変化の特徴とが似ているため、気分や感情あるいは行動に変化を生じた高齢者に甲状腺の検査を行うことの重要性は明らかです。
先天性甲状腺機能低下症  
胎児や幼児期のいちばん肝心な発育期間中に、ヨード欠乏による甲状腺機能低下症が原因で、脳に損傷を受けた人が世界中で2,000万人近くおります。食餌中のヨードが不十分な場合(ヨードは甲状腺ホルモンを作るのに欠かせないものです)、胎児や新生児に対する影響としては、甲状腺機能低下症や甲状腺腫(甲状腺の肥大)が一般的です。食餌中のヨードが日常的に欠乏している地域では、新生児の10%が甲状腺機能低下症になっています。アメリカでは、ヨード欠乏が新生児の甲状腺機能低下症の原因ではありません。それにもかかわらず、4,000人に1人の割合で先天性甲状腺機能低下症の子供が生まれてきます。これは甲状腺が全くないか、発育不全によるものが多いのです(23)。甲状腺機能低下症のある新生児の一部では、甲状腺が首の正しい位置にありません。その代わり、正常な位置と舌の付け根との間のどこかに甲状腺があるのですが、これは“異所性甲状腺”と呼ばれる病気です。脳下垂体のホルモンであるTSHの欠乏を起こす脳下垂体の欠陥による先天性甲状腺機能低下症ははるかにまれなもので、10万人の新生児あたり1人の割合でしか発生しません。まれな例では、脳下垂体の機能不全またはTSHの欠陥による甲状腺機能低下症は、家族性であり、遺伝的に伝わる疾患です。
胎児期と誕生から2〜3歳までの間に甲状腺ホルモンがなければ、脳の損傷と精神発達遅滞を生じます。アメリカやその他の多くの国で、先天性甲状腺機能低下症の組織的なスクリーニングが実施されています。生後2〜3日以内に診断がつくのが理想的です。甲状腺ホルモン治療の開始が早ければ早いほど、そのような子供の精神発達によい結果がでるのです。例えば、生後3ヶ月から6ヶ月の間に診断を受けた子供の平均知能指数はわずか19にしかすぎません。診断が遅れた子供は学習障害や成績不良、および社会への適応がうまく行かないというようなことに生涯苦しむことになります。しかし、早期に治療を開始し、適切な治療を受けた先天性甲状腺機能低下症の子供は、5歳から10歳になった時点で評価したところ、正常な知能を有し、成績もよいのです。結局は、これらの子供の知的能力や認知能力も必要な薬物治療を受けたかどうかによって決まるのです。あなたの子供が先天性甲状腺機能低下症に罹っており、毎日甲状腺ホルモン剤を飲んでいる場合、大豆を元にして作った調合乳が腸での甲状腺ホルモンの吸収を妨げるということを知っておかなければなりません(24)。大豆を元にして作った調合乳を与えられている子供では、甲状腺ホルモン剤の量を増す必要があります。
多くの家族が複数の症例を持っていることから、遺伝的ファクターも先天性甲状腺機能低下症の発生に何らかの役割をはたしているようです。黒人の子供は白人の子に比べ、先天性甲状腺機能低下症に罹りにくいのです(25)。スクリーニングをしなくても、70%は生後1年以内に診断がつきますが、不可逆的な脳の損傷という犠牲を払わなければなりません。甲状腺ホルモン欠乏で起こるものの一つに難聴があり、ペンドレッド症候群の患者の症状の一つでもあります(26)。ペンドレッド症候群は遺伝性の病気で、甲状腺ホルモンの合成に関わる遺伝子の欠陥と難聴がその特徴です。これは子供の難聴の全ケースのほぼ7%を占めています。
新生児の甲状腺機能低下症の症状はごく些細なものであることがあり、また必ずしも甲状腺の異常をを示すものではないため、生後6日以内にルーチンに甲状腺の検査を行います。このスクリーニングは踵をつついて、ろ紙に採取した血液中のTSHと/またはT4を測定することで行われます。理想を言えば、スクリーニングにはTSHとT4の両方を含めるべきですが、医療関係当局がコスト面を気にしたため、残念なことですが2つの方法のどちらかを選ぶことになったのです。TSH法を使った場合、医師が視床下部または脳下垂体性の甲状腺機能低下症(中枢性甲状腺機能低下症としても知られています)を見逃す恐れがありますが、この疾患ではTSHが正常なことがあるからです。これは最近発表されたカリフォルニアの子供に起こったケースで、その子供は生後わずか6ヶ月で正しい診断を受けましたが、すでに不可逆性の脳損傷を受けており、それはT4レベルを測定しておれば、防げたはずのものでした(27)
それ以外のTSHスクリーニングの限界として、甲状腺に欠陥のある新生児の中にはTSHの上昇が遅れて現れる者がおります。このような赤ちゃんでは、スクリーニングを行った時点では正常な結果が出ますが、生後何週間か経って異常になるのです。
T4検査を主なスクリーニング法として使った場合、中枢性甲状腺機能低下症は簡単に検知できますが、甲状腺の欠陥による軽度の甲状腺機能低下症を小児科医が見逃す恐れがあります。そのような赤ちゃんでは、不活発な甲状腺が時間が経つにつれて悪化し、脳の損傷を起こすことになります。出生時の軽度甲状腺機能低下症は甲状腺の位置異常によることが多く、これは先天性甲状腺機能低下症の最大の原因でもあります。
多くの乳児ではT4レベルが低いレベルと正常レベルとの間にある広いグレーゾーンに入り、再検査が必要になることから、医療センターの多くはスクリーニングの目的にはT4より、TSHを選びます。ほとんどの国でスクリーニングにはTSHを使っています。誤診や不必要な心配を避ける一つの方法としては、最初のスクリーニングでTSHレベルが1リットルあたり20ミリ国際単位未満であることを確かめてください。TSHレベルがそれより高い場合は、T4レベルの検査をし、後でTSHレベルの再検査をするよう小児科医に相談してください。赤ちゃんの先天性甲状腺機能低下症を気付かせる症状であるため、気を付けて見なくてはならないものは、新生児黄疸がなかなか引かなかったり、お乳の飲みかたが少ない、皮膚の色が青みがかっている、筋肉がだらっとしている、舌が腫れている、ぐったりしている、便秘そして成長が遅いということです。スクリーニング検査でTSHレベルをチェックしており、赤ちゃんが異常な行動を示す場合、小児科医にT4の検査とTSHの再検査を行ってもらうようにしてください。
先天性甲状腺機能低下症のよくみられる原因
  • 甲状腺の位置異常(異所性甲状腺)
  • 甲状腺の発育不良または発育不全
  • 先天性甲状腺ホルモン産生異常
  • 視床下部または脳下垂体の機能不全
  • 新生児の一過性甲状腺機能低下症
  • 母親が胎児の甲状腺ホルモン産生を妨げるような薬剤を摂取した場合(抗甲状腺剤)
低T4と低または正常TSHレベルを伴う未熟児の先天性甲状腺機能低下症の原因
  • ヨード欠乏
  • ヨード過剰
  • 母親の抗体が胎盤を通じ、胎児の甲状腺に悪影響を与えた場合
覚えておくべき重要なポイント
不活発な甲状腺の症状でいちばん多いのは疲労です。この疲労は身体的、精神的なものの両方で、うつ病の典型的な症状や甲状腺ホルモン欠乏の身体症状に先立って現れることがよくあります。
不安症状−過度の心配やパニック発作を含む−は甲状腺が不活発になった時に普通に見られる症状です。これらの症状は活発すぎる甲状腺の典型的なものでもあるため、混乱を生じることがよくあります。
重篤度には関わりなく、甲状腺機能低下症は記憶力の低下や情報処理が困難になる、また集中できないなどの認知障害を起こすことが多いのです。そのような頭に霧がかかったような状態になると、自尊心が低下し、不安が増すという悪循環が生じてきます。
血液検査の結果が示すように、人口の約5から7%に軽度の甲状腺機能低下症があります。もし、血液検査では正常であるのに、まだ甲状腺ホルモンの不足がある人まで含めれば、この数字は10%にまで上がる可能性があります。
軽度の甲状腺機能低下症はうつ病になるリスクを高め、またうつ病を悪化させることがあります。また、認知能力にも悪影響を与えます。
不活発な甲状腺により、一種の加齢促進状態が起こります。それにより脳の損傷や脳の働きの鈍化が起こることがあります。
重症の甲状腺機能低下症が長いこと治療されないままであると、脳の損傷がひどくなり、痴呆が起こるような場合もあります。
. Dr.Tajiri's comment . .
. この章と関連したページが、わたしのHPの中にありますので参考にしてください。
甲状腺ブルース【Thyroid Blues】
先天性甲状腺機能低下症
隠れた甲状腺の病気:誰がスクリーニングを受けるべきか?
新生児のスクリーニング:緊急に必要なこと
臨床ガイドライン(Part-1)甲状腺疾患のスクリーニング
臨床ガイドライン(Part-2)甲状腺疾患のスクリーニング:最新情報
甲状腺機能低下症の神経学的認識力について
妊娠中の母親の甲状腺ホルモン欠乏とその小児における神経心理学的発達
重要な甲状腺機能低下症の研究に対する米国内分泌学会のコメント
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参考文献
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